あないびとと歩く有松

「400年の伝統が息づく絞りの産地を訪ねて」

あないびと:加藤明美さん

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「有松あないびとの会」の立ち上げ当時から18年にわたり、あないびとを務める加藤明美さん。
今回は主に有松・鳴海絞りの歴史と伝統の技について案内してくださいます。
有松の町、そして絞りへの敬意と愛があふれる口上に、
江戸時代から連綿と受け継がれる技の奥深い魅力が生き生きと蘇るようです。
絞りの歴史に思いを馳せながらのまち歩き。どうぞご一緒にお楽しみください。

絞りの町の風情を感じる東海道

有松駅〜東海道へ

普段、あないびととして町案内をする時の出で立ちで私たちを出迎えてくれた加藤さん。身に付けている法被は、あないびとの衣装のために特別にデザインされたものだそう。いくつもの絞り模様が施され、深みのある藍色で鮮やかに染め上げられています。颯爽と歩き出す加藤さんのガイドに従って、有松駅を起点に町並みを目指します。

「東海道は駅の南側になります。街道沿いの交差点の信号機が縦になっているでしょう?あれは年に一度の秋のお祭りの時にここを山車が行き交うので、ぶつからないようにあのようになっているんですよ。」

東海道へ向かう途中で目に入った交差点の縦型の信号機。有松の町ならではの理由をさっそく加藤さんが教えてくださいました。

昔も今も有松の人々の心の拠りどころ〜祇園寺

祇園寺

「東海道に出たら、右に折れてまっすぐに。まずは祇園寺さんからご案内しますね。有松の人々の菩提寺としてとても大切にされているお寺さんなんですよ。」

尾張名所図会にも描かれ、当時の様子をいまも色濃く残す祇園寺。宝暦5年(1755)に鳴海の円道寺より移設し建立された曹洞宗のお寺で、江戸時代には寺子屋としても使われていました。

「本堂そのものは新しく建て替えられていますが、掲げられている額は当時のもの。右から〝得〟真ん中が〝瑞〟一番左が〝関〟。神様のおられる神聖な場所を『瑞』と呼び、そこへ入る、つまり『得』ることができる最後の『関』、という意味だそうです。尾張名所図会にも同じものが描かれています。」

祇園寺には、有松・鳴海絞りの発展に寄与した藩主・徳川義直公や、中興の祖・鈴木金蔵らが祀られ、こじんまりとしたお寺でありながら価値の高い寺宝が数多く残っています。

「一般公開はされていないのですが、白狐に乗った秋葉さまなども。秋葉さんといえば『火の神様』ですが、有松は1784年に大火災に遭っていて、町のほぼすべてが焼失してしまいました。当時、有松の人々の落ち込みようも大変なものだったようです。丸焼けになってしまった町の中で、焼け残った数少ない建物のひとつがこの祇園寺でした。以来、二度と火災が起こらないようにということで、いまも町には秋葉さんが五つもあります。」

町ができてから150年もの間、有松にはお寺が存在せず、祇園寺は人々の念願が叶ってようやく建立された待望のお寺でした。そんな祇園寺が焼け残ったことは、当時の町の人たちにとって大きな希望になったことでしょう。さらに本堂の横の中庭には、奈良の薬師寺のものを模した「仏足石」や、光明皇后が詠んだという歌碑も。

「『御跡作る 石の響きは天に至り 地さえ揺れ 父母がために諸人のために』とあります。
この歌には、未来永劫まで子々孫々が安寧に暮らせますようにと、そんな願いが込められているんですね。当時の有松の人たちの復興のシンボルだったことがわかりますよね。」

境内の一角にある「三十三観音」は、復興後に有松の絞商や紺屋たちが一体一体寄進したもの。それぞれに当時の屋号や寄進した人たちの名前が刻まれています。

「大火災の後、尾張藩の手厚い援助もあり、有松はわずか20年で復興しました。みんなで仏足石や観音様を御寄進されている様子を見ると、再び潤いを取り戻しても、当時の人々が決して私腹を肥やすのでなく、感謝の気持ちを忘れなかったことがわかります。私たちあないびとのメンバーも時々お掃除をしたりして大事にさせていただいているんですよ。」

絞りの町・有松の誕生

有松の由来

「有松」の名前の由来には諸説あり、東海道ができる前、このあたりには昼間でも暗いほど鬱蒼と松の木が生い茂っていたことからその名がついたというのもそのひとつ。それまでこの一帯には人はほとんど住んでいなかったと言われています。
1608年、東海道の整備に伴い、尾張藩が入植者を募るお触書きを出し、それを見てやってきた8人の移住者によって集落が作られこの地に有松の町が生まれました。

「絞りの町として栄華を誇るようになるのはさらに後のこと。最初は農業をやろうとしたのですが、松の木だらけの粘土質の土地は農業には向きませんでした。仕方なく、当時建設中だった名古屋城へ働きに行くんですね。そこで九州から来ていた職人が持っていた絞り染めの手ぬぐいを偶然目にして、郷里の知多木綿にこの技を施し、街道の土産物にして有松で商売をしよう!とひらめいたことが絞りを始めるきっかけだったそうです。」

日持ちを気にすることもなく嵩も張らない絞りの生地は、旅の土産に最適と、あっという間に東海道のヒット商品に。東海道中膝栗毛にも「欲しいもの 有松染めよ 人の身の あぶら絞りし 金にかえても」と弥次さんが歌い、嬉しそうに絞りの手ぬぐいを買い求める様子が描かれています。

絞りの風合いを生かす繊細な手の技、湯のし

湯のし・張文

「絞りで栄える町の様子を見て、尾張藩は有松の絞商らに製造と販売の独占権を与えます。そのおかげもあり、ますます有松は繁栄していきました。そのようにして始まった有松・鳴海絞りですが、400年経ったいまもほとんど変わらず、当時の技の多くが受け継がれているんですよ。」

防染の技術である有松・鳴海絞り。完成までの工程は基本的に分業で行われます。「型彫り」「絵刷り」といった工程を経て、絞り職人による「くくり」が施された後に「染色」。さらに絞りの良さを引き出すために欠かせない大切な作業が「湯のし」です。

「ここ張文さんでは、お祖父さんの代から手作業で湯のしを続けていらっしゃるんです。普段はめったに見ることはできませんが、今日は特別にその様子を見せてくださるそうなのでお訪ねしてみましょう。」

一見すると普通の民家に見えるお宅。その軒に掲げられた「張文」の看板。引き戸を開けて中をうかがうと、奥まで続く長くて広い土間が。そこでは湯のし職人の加藤和子さんはじめ、3人の女性たちが息を合わせて湯のしの作業の真っ最中。

「湯のしは着物に仕立てる前の裁断されていない状態で行います。下から高温の蒸気をあてながら最低3人がかりで伸ばしていくのですが、一反分を一気に伸ばしますので、縦に広い作業場がないとできません。絞りならではのしぼ(しわ模様)を潰さないよう美しく再現するには、上からプレスするようにアイロンをあてることができないので、この方法が最適なんですよ。」

と教えてくださった加藤和子さん。湯のしには機械で行う方法もあるそうですが、張文では昔ながらの手作業にこだわり、ずっとこの方法を受け継いできたのだそう。

「張文は祖父が始めて私で三代目。私の代になってからもう40年くらいになります。有松ではうちの他に湯のしを専門でやっているところはないのではないでしょうか。」

年季が入り、鈍い光沢を湛えて味わいを増した道具。お祖父様の代から使い続けられてきたものが今も立派に活躍しています。

「高温の蒸気なので火傷もしますしねぇ。手間はかかりますが、絞りの模様と立体感を壊さず風合いを残すにはこのやり方がいいんです。大事なのは幅をきっちり揃えること。仕立てた時の仕上がりにも響くのでとても気を使いますね。」

一反につき3〜4往復。手早く一気に仕上げる湯のし。あっという間に色と柄が蘇り、美しい浴衣地が仕上がりました。手慣れた作業の中にも、長年培われた繊細かつ熟練した手の技が生きているんですね。

江戸時代から伝承される絞りの美しさと人々の営みを訪ねて

服部家(井桁屋)

張文さんを後にして再び東海道へ。
次に訪れるのは、町並み保存地区のほぼ中央にある「服部家住宅(服部孫兵衛家)」。
東海道をはさんで向かい側にあった「大井桁屋」から分家し、「井桁屋」の屋号で1790年に創業した絞問屋です。

「井桁屋さんでは、いまでも本物の藍で染めた反物がたくさん展示・販売されています。藍染めの絞りがここまで揃うのは全国的にもここだけだと思います。柄の種類も豊富で、遠方からわざわざいらっしゃるお客様も多いそうですよ。」

お店の中でご主人の服部謙志さんにうかがいました。

「寛政2年の創業から、私で9代続いております。昔は問屋でしたがいまは小売が中心。時代が下がり、交通が発達してからは歩いて旅する人は減りましたが、代わりに今では全国に向けて販売を広げています。座敷には主に藍染めの反物をたくさん揃えております。私たちの暮らしや商売の形は変わっても、絞りそのものは江戸時代から大きくは変わっていません。」

ずらりと並ぶ反物につい目を奪われてしまいますが、壁や天井にも目を向けると、実際にお輿入れに使われたという駕籠や、提灯をしまっていた井桁の紋入りの木箱など、昔の暮らしを偲ばせる貴重な道具たちが保存されています。こちらも必見!

現代に蘇る幻の嵐絞り

蔵工房

実に100を超える技法があるといわれる有松・鳴海絞りですが、時代の流れの中でさまざまな理由により途絶えてしまったものも少なくありません。しかし、有松のまちには一度姿を消してしまった幻の技法を再び蘇らせた人たちがいます。その一人、早川嘉英さんを訪ねました。

早川さんは、一度途絶えてしまった「嵐絞り」を新たな技術で復活させた有松出身のアーティスト。嵐絞りとは、長い丸太棒に布を巻き、その上から糸や縄をぐるぐると巻き付けたものを片方に寄せ、丸太棒ごと藍の染料に浸して染めるという大胆な技法。そこから生まれる、名前通りの勢いのあるシャープな柄は、男物の浴衣などに似合う独特の魅力があります。

「有松の中でもこんなアホなことをやっとるやつは他におらんだろうな。」

作業の様子を見せていただこうと工房におじゃました私たちに、早川さんは作業の手を休めることなく静かに語り始めました。

「濃紺という深い藍色を出すには少なくとも10回は洗いをかけなければいけない。見ての通り、藍染めはものすごく手間がかかるんですよ。そもそも藍の原料になる蒅(すくも)が少なくなって、それを調達するのも一苦労。その上、嵐絞りは長い丸太棒をそのまま浸す大きな水槽がないとできないからね。ひとつの瓶で染められる糸の量は一回に4〜500グラム。それをせいぜい1日3回。Tシャツ一枚に使う糸がおよそ230グラムだからまったく割に合わない。商売にならないからだんだんやる人もいなくなってしまったんです。」

そんな嵐絞りを復活させようと、早川さんが本格的に取り組み始めたのは20年ほど前のこと。そのきっかけやこだわりについてお聞きすると。

「染め屋の長男として生まれたけれど、自分はやろうとは思ってなかった。けれど、ものづくりは好きだったので、ガラスやコンクリートに絞りの形を表現してみたり、10年ほどあれこれ試行錯誤していたんですよ。それでも嵐絞りの復元だなんて大それたことは考えていなかったな。ただ僕にとって好都合だったのは、他の絞りと違って一人で完結する技法というところ。あれこれ模索しているうちに本格的に復元しようと思い立ち、どうせやるなら染料も本物の藍にこだわってちゃんとしたものをやりたいと思ったんです。」

嵐絞りに欠かせない丸太棒は、当初、山で切り出した北山杉を手で削るなど、手間をかけ昔ながらの方法を用いて再現していたそうですが、いまは扱いやすく均等な太さのステンレスのパイプで代用。早川さん流に工夫を凝らしながら幻の嵐絞りを見事に蘇らせました。

「若い頃は新しい表現を求めるあまり、伝統を壊してやろうと思っていた。しかし新しいものを表現するには、原点に戻ることが必要だと気づいたんです。江戸時代に有松で生まれた絞りの技術、その原点を見直し、そこから何が学べるのか。それがものづくりの本来の姿だと。いまは何かひとつでも、これだ!と思うものに出会いたい。それが見つかるまではやりきりたいね。」

伝統の豆絞りを復刻した先代たちの情熱を受け継ぐ

張正

無数の水玉模様が規則正しく並んだ「豆絞り」。手ぬぐいなどに使われる代表的な伝統柄としておなじみですが、いまや全国でもここ有松の「張正」だけでしか作られていない貴重なもの。
創業は明治30年。「雪花絞り」や「片野絞り」に代表される、板締め絞りを専門にする老舗の染め屋さんで、いまは4代目の鵜飼さんご夫婦が伝統の技を守っています。
戦後に途絶えてしまった豆絞りを鵜飼さんのお祖父さんとお父さんが中心となり、5年の歳月をかけて復刻したのは昭和30年代のことでした。

「昭和25年の新聞に『幻の豆絞り』という記事が載ったそうです。どうやら戦争によって途絶えてしまったというんですね。それを見た大阪の手ぬぐい屋さんから問屋の竹田嘉兵衛商店さんへ、産地は有松なのではないかと問い合わせがあり、そこからうちへ製造の依頼が来たんです。」

張正が復刻した豆絞りは板締め絞りの一種。2cmほどの幅に屏風畳みに畳んだ布を両側から板できつく挟み、板に彫られた細い溝に染料を流すことにより溝の部分が布の山折りの部分だけを線状に染め、開くと小さな丸が規則正しく染め上がるという技法。しかし当時は作り方の記録はおろか、豆絞りの手ぬぐい一本すら残っていませんでした。雲をつかむような復刻への挑戦には大変な苦労があったのだろうと、奥さんの小百合さん。

「多くの浮世絵や歌舞伎の役者絵などに描かれていることから、江戸時代からあったものだということはわかるんですが…。祖父や父の試行錯誤は相当なものだったと思います。きっかけは南知多の海水浴場でのこと。たまたま海で豆絞りの手ぬぐいを持っている人と出会い、それを見せてもらったことで急速に復元が進んだと聞いています。」

道具から手作りをし、見事に技法を再現。最近では豆絞り風のプリントも多く出回っていますが、歌舞伎など伝統芸能の世界ではやはり手で染めたものでなくてはと、いまでも注文は絶えません。

「丸のひとつひとつに違う味わいが出るのが良さですね。父は、見て覚えろ!という人でしたから細かく教えてもらうことはありませんでした。折りも締めも長年の勘だけが頼り。生地も変わるし季節や天候も影響します。二人で日々、試行錯誤の連続です。」

豊富な井戸水を湛えた大きな3つの水槽も創業当時からのもの。張正では、忙しい作業の合間にも、ご主人の敬一さんが工房に見学に来られたお客さんに板締めの雪花絞りの実演を披露してくださることもあるそうですよ。

職人さんの鮮やかな手技に釘付け!絞りのすべてがここに

有松・鳴海絞会館

「職人さんたちからこういうお話をお聞きするたび、本当に凄いなあと思います。それでもまだ本当の凄さは私たちにはわからないのかもしれませんね。先人の知恵と苦労の歴史を知るほどにいつも感心させられます。」

感動の余韻に浸りながら、加藤さんが最後に案内してくださったのは「有松・鳴海絞会館」。
有松絞商工協同組合理事長の成田基雄さんにお話しをお聞きしました。

「こちらは有松の伝統産業、絞りを紹介するために昭和59年に開館しました。1階の販売コーナーには絞りの生地を使ったグッズが並びます。2階は資料展示室になっていて、代表的な絞り模様の反物や、絞りに使うさまざまな道具たちを展示しています。いまは使われなくなった大変貴重なものもありますが、これでもまだまだ一部です。有松の情景や絞りの模様は、浮世絵にも数多く登場します通り、当時から絞りが大変な人気だったことがわかります。資料展示室の中では絞り染めの工程をわかりやすく紹介した映像も上映していますが、ここではみなさん足を止めて熱心にご覧になっておられますよ。」

館内での一番の見どころは現役で活躍する絞り職人さんによる実演。常に人気のコーナーで、職人さんたちと気さくにおしゃべりを交わしながら熟練の技を間近に見ることができます。

「現役の絞り職人さんたちはご高齢の方が多くなりましたが、それぞれに受け継いできた技を誇り、みなさんまだまだ元気に活躍されています。そんな職人さんたちに、生きた名古屋弁を聞かせてもらえるのも楽しいんですよ。」

町を拓き、繁栄の礎を築いた先人たちへ思いを寄せて

竹田庄九郎碑・鈴木金蔵碑

有松・鳴海絞会館の奥には有松絞りの開祖・竹田庄九郎と中興の祖・鈴木金蔵の碑が並んで建っています。その功績を称え、石碑の前では毎年慰霊祭が行われています。

あないびと・加藤明美さんの案内による有松散歩、いかがでしたでしょうか。
時代を越えても色褪せることなく愛され続ける絞りの伝統と町並み。日本遺産に認定され、いま改めて見直される奥深いその魅力は、実際に町を訪れ目に触れてこそより実感できるのかもしれません。名古屋駅からのんびりと電車に揺られて20分。風情を味わう有松への小旅行、満喫してみませんか。

PROFILE

あないびと

加藤明美さん

有松あないびと立ち上げメンバーの一人として町のガイドを務めて18年。
古から受け継がれてきた町並み、人、文化にいたるまで、有松の人々の心意気や誇りまでを伝えたいと、全てに愛を込めて語る真心の案内が旅人たちの心に響きます。